513回 (2014.1.15)

能 「遊 行 柳」 に つ い て

今 村  威 (一遍会 理事)

 

二〇〇三(平成一五)年十月のユネスコ総会において、「無形文化遺産保護条約」が採択された。近年日本の和食や和紙が、ユネスコの世界無形文化遺産に採択されて国中が喜びに沸いたことは、記憶に新しい。実はそれに先だって、二〇〇一年ユネスコの「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」第一回で、日本の「能」を含む一九件が、採択された。これらの無形文化遺産は今では「無形文化遺産保護条約」に統合されている。日本の「能」は、世界無形文化遺産の第一号なのである。

 

「能」がなぜ、それほどまでに、世界で高く評価されるのであろうか。作曲家黛俊郎(一九二九〜九七)が、まだビデオもなかった頃、ベルリンの現代音楽祭に、スライドと録音を使って能「葵上」を

紹介したのが、本格的な海外紹介の最初であろう。その反響は大きく、その斬新さに、聴衆は、てっきり日本の現代音楽劇と思ったという。能の詞章は節を付けて歌われ、能管()、鼓、大鼓、時に太鼓を加える簡素な伴奏が、かえって新鮮に受け止められ、深い感動を与える。西欧の演劇が、より複雑なものへと進化していったのに対して、能は、単純化を追求していることも、西欧の聴衆を驚嘆させた一因であろう。

 

能の大成者世阿(世阿弥)は、「能は神楽なり」といっている。奥州の中尊寺の能舞台は、勧請した白山神社の境内に作られており、総ての能舞台の背景(鏡板)には、神が降臨すると伝えられる松の大樹が描かれ、野外能では舞台の四隅に竹を立て、注連縄を張った結界を作って演じられるのも、そのためである。神楽は神と人との和合の芸術であるといわれるが、能では霊的な者と現世の人物との対話という形式をとることがほとんどである。これを「夢幻能」と呼ぶ。

 

「夢幻能」の形式は、前場と後場に分かれる。前場では、ワキ(脇役)の旅僧が、いわくありげな里人(前シテ・シテは主役)に会う。里人は面を付けているので、霊的な存在であると分かる。里人は、この場所で死んだ人物について物語り、いずくともなく見えなくなる。後場は、その夜、旅僧の夢に、昼間里人として現れた霊(後ジテ)が本当の姿を現して、成仏できない苦しみを述べ、供養を頼んで消えてゆくという構成である。一遍上人は、遊行の途次、山野に非業の死を遂げた人の屍があると、懇ろに供養をしたといわれる。そのことと通じるものがある。霊的な者が、自分の生前の生き様を語り、死後それを振り返っての思いを、この世に生きて居る者へ聞かせるという設定は、現に迷妄の世界に生きて居る我々に、そのことを思い知らせる哲学的な作用を与える。このことも、海外の人たちに、新しい感動を与えるのであろう。

 

「一遍上人語録」巻下一四の「自受用」(松は松、竹は竹という様に、自分の本性に従って生きれば、迷いから脱却した楽しい生き方が出来る)の教えは、南北朝時代から室町時代にかけて、連歌、立花(生け花)、造園、琵琶法師など、阿弥衆、同朋衆とよばれる多くのプロ集団を生んだ。その一つに大和猿楽の結城座があり、その座の観阿(観阿弥)、世阿親子が、今日に伝わる能を大成する。観阿世阿親子は、滑稽な物まね劇に起源する猿楽を、伊勢物語、源氏物語、新古今集などの古典を題材にして、幽玄という美意識(壮美と優美が融合した奥深い情趣美)をもった演劇にまで進化させた。

 大成者世阿の死後、いったんマンネリ化しかけた能に、活劇風の要素を加えて、風流能という新風を吹き込んだのは、世阿の子の音阿(音阿弥)の子観世信光である。主な作品に、「船弁慶」「紅葉狩」「羅生門」「安宅」がある。これらは後の歌舞伎にも活かされており、歌舞伎「勧進帳」は、能「安宅」の脚色である。

 

その信光が、祖父世阿の幽玄能を継承した作品がある。それが「遊行柳」である。今から丁度五百年前の永正一一(一五一四)年に作られた。この作品は夢幻能で、前場と後場のからなる。

 

前場 上総国から白河の関へ向かう遊行上人(ワキ)が、道に迷っているところへ、里の老人(前ジテ)が現れ、西行ゆかりの柳の老い木の所へ案内し、遊行上人から十念を受け、喜びながら、柳の老い木の辺りに消える。

 

後場 里の老人が本性を現して、柳の精(後ジテ)として現れ、遊行上人から十念を受けたことを感謝して、和漢の柳の名木の由来を語り、御礼の舞いを舞って、柳の老い木のもとに消える。

 

素材は「一遍上人語録」である。念仏の安心を尋ねた興願僧都への返信

 

「よろづ生としいけるもの、山川草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預(あづかる)にあらず」

をテーマにしている。それは、後場の

 

地謡 今ぞみ法に合ひ竹の、直ぐに導く弥陀の教へ、衆生称念、必得往生の、功力に引かれて、草木までも、仏果に至る、老い木の柳

シテ 弥陀の悲願に頼まずは、いかで仏果に至るべき、

地謡 南無や灑濁(しやじよく)帰命頂礼本願偽りましまさず、超世の悲願に身を任せて、他力の舟に法の道の詞章によって明らかであろう。